10年近い居住を経た自然損耗と故意・過失による損耗の明確な区別方法

賃貸住宅の長期居住においては、経年変化による自然損耗と賃借人の責任による損耗の区別が重要な争点となります。
特に10年近くの居住期間では、様々な劣化や汚損が発生し、その責任の所在を巡って賃貸人と賃借人の間で深刻なトラブルが生じることが少なくありません。
今回ご紹介する東京簡易裁判所平成7年8月8日判決は、約10年間の居住期間における原状回復(元の状態に戻すこと)義務の範囲を明確に示した重要な判例です。
この事例では、賃貸人が「一切の破損・汚れ」を理由に敷金(入居時に預ける保証金)の全額没収を主張したものの、裁判所は時間の経過に伴う自然損耗は賃料に含まれるとして、賃借人の全面勝訴を認めました。
本記事では、この判例の詳細な分析を通じて、長期居住における適正な原状回復負担と、実務上の対策について解説いたします。

監修者
1982年にサレジオ学院高校を卒業後、中央大学法学部法律学科に進学し1987年に卒業。法曹界を志し、様々な社会経験を経た後、2016年に行政書士試験に合格。2017年4月に「綜合法務事務所君悦」を開業。法律知識と実務経験を活かし、国際業務を中心に寄り添ったサービスを提供している。
日本行政書士会連合会 神奈川県行政書士会所属
登録番号 第17090472号
概要
本事例は、都内の賃貸住宅における約10年間の長期居住後の原状回復費用を巡る争いです。
昭和60年3月16日に締結された賃貸借契約は、月額賃料16万7000円、敷金33万4000円で開始され、平成7年12月1日まで継続しました。

- 物件
都内の賃貸住宅 - 賃借期間
昭和60年3月〜平成7年12月(約10年間) - 月額賃料
16万7000円 - 敷金
33万4000円 - 争点となった金額
原状回復費用56万5600円(賃貸人請求額)
賃借人の退去後、賃貸人はビニールクロス(壁紙)張替え費用等22項目にわたる原状回復費用として合計56万5600円を支出したと主張しました。
賃貸人は契約書の「明け渡しの後の室内建具、襖、壁紙等の破損、汚れは一切賃借人の負担において原状に回復する」との条項を根拠に、敷金を全額充当して一切返還しませんでした。
これに対し賃借人は、自ら認める襖張替え費用1万3000円を除いた32万1000円の敷金返還を求めて提訴に至りました。
契約内容と特約の詳細
本件賃貸借契約には、包括的な原状回復義務を定めた特約が設けられていました。

- 原状回復特約の内容
- 「明け渡しの後の室内建具、襖、壁紙等の破損、汚れは一切賃借人の負担において原状に回復する」
- 範囲:室内建具、襖、壁紙等のすべての破損・汚れ
- 責任:「一切」の損耗について賃借人負担
- 賃貸人が請求した具体的損耗
- じゅうたんへの飲みこぼし跡
- 冷蔵庫排気による壁の変色
- 家具設置による跡や凹み
- 畳の擦れ跡
- 網戸の小さな穴
- 額縁のペンキ剥がれ
特約の文言は「一切賃借人の負担において原状に回復する」という包括的な表現で、故意・過失の有無を問わず、あらゆる破損・汚れを賃借人負担とする内容でした。
賃貸人の主張によれば、この特約に基づき、ビニールクロス張替え、畳・襖の修繕、設備の補修など22項目にわたる工事費用を賃借人が負担すべきとしていました。
月額賃料16万7000円という高額設定にも関わらず、退去時には敷金を大幅に上回る原状回復費用が請求される契約構造となっていました。
この包括的特約の有効性と、約10年間の居住による自然損耗の扱いが本件の核心的争点でした。
賃貸人・賃借人の主張のポイント
賃貸人側は契約書の文言を根拠として包括的な原状回復義務を主張し、賃借人側は長期居住による自然損耗を争点としました。
争点 | 賃貸人側の主張 | 賃借人側の主張 |
---|---|---|
原状回復特約の解釈 | 「一切賃借人の負担」の文言通り、すべての破損・汚れは賃借人負担 | 約10年の居住期間による自然損耗は除外されるべき |
具体的損耗の性質 | 退去時に確認された損耗はすべて賃借人の使用による | 冷蔵庫排気跡、家具跡等は通常使用の範囲内 |
経年変化の考慮 | 特約により経年変化も賃借人負担 | 時間の経過による自然劣化は賃料に含まれる |
負担すべき費用 | 22項目合計56万5600円 | 自認する襖張替え費用1万3000円のみ |
賃貸人は、契約書に明記された「一切賃借人の負担において原状に回復する」との条項を根拠に、退去時に発見されたすべての損耗について賃借人の責任を主張しました。
特に、じゅうたんの飲みこぼし跡や冷蔵庫排気による壁の変色、家具による跡など、日常生活で不可避的に生じる損耗についても、特約により賃借人が負担すべきと主張していました。
一方、賃借人側は約10年という長期居住期間を重視し、時間の経過に伴う自然損耗は賃料に含まれており、特約があっても賃借人負担とはならないと反論しました。
また、冷蔵庫の排気跡や家具の設置跡などは、通常の生活で不可避的に生じるものであり、賃借人の故意・過失による損耗とは性質が異なると主張していました。
裁判所の判断と法的根拠
裁判所は、賃貸借契約の本質と長期居住の実態を踏まえた明確な判断基準を示しました。
判断項目 | 裁判所の認定 | 結論 |
---|---|---|
原状回復条項の解釈 | 賃借人が建物賃借当時の状態に回復すべき義務はない。自然損耗は賃料として回収されている | 故意・過失、通常でない使用による損害のみが対象 |
自然損耗の具体例 | 額縁ペンキ剥がれ、冷蔵庫排気跡、家具跡、畳擦れ跡、網戸の穴は10年近い期間による自然損耗 | すべて賃借人負担の対象外 |
通常使用の範囲 | 飲みこぼし跡、家具跡等は故意・過失による毀損とは認められない | 通常使用の範囲内として賃借人負担外 |
最終的負担 | 賃借人が自認した襖張替え費用のみ | 敷金32万1000円の返還を命令 |
まず原状回復条項の基本的解釈について、「建物賃貸借契約に原状回復条項があるからといって、賃借人は建物賃借当時の状態に回復すべき義務はない」との重要な法理を確立しました。
その理由として、「賃貸人は、賃借人が通常の状態で使用した場合に時間の経過に伴って生じる自然損耗等は賃料として回収している」ため、原状回復条項は「賃借人の故意・過失、通常でない使用をしたために発生した場合の損害の回復について規定したもの」と判断しました。
具体的な損耗の判定では、約10年という居住期間を重視し、額縁のペンキ剥がれ、冷蔵庫排気跡、家具跡、畳の擦れ跡、網戸の穴などはすべて自然損耗と認定しました。
最終的に、賃借人が自ら認めた襖張替え費用1万3000円を除く敷金32万1000円の全額返還を命じ、賃借人の全面勝訴となりました。
判例から学ぶポイント
この判例は、長期居住における自然損耗の扱いと原状回復条項の適正な解釈を示す重要な先例となりました。

長期居住における重要な原則
- 居住期間の重要性
10年近い居住期間は自然損耗判定の重要な要素 - 賃料との関係
自然損耗の回復費用は賃料に含まれており、二重負担は不当 - 通常使用の広義解釈
日常生活で不可避的に生じる汚損も通常使用の範囲
最も重要な教訓は、包括的な原状回復特約があっても、居住期間の長さによって自然損耗の範囲が拡大するという点です。
また、冷蔵庫の排気跡や家具の設置跡など、通常の生活で不可避的に生じる損耗についても、故意・過失による損耗とは区別されることが明確になりました。

実務への重要な影響
- 「一切」の文言があっても自然損耗は除外される
- 日常生活の跡は通常使用の範囲内
- 長期居住では自然損耗の範囲が広がる
- 賃借人の自認がない限り負担義務は生じない
実務的には、長期賃貸借における経年変化と日常使用による汚損を明確に区別する必要性が確認されました。
さらに、賃貸人が原状回復費用を請求する場合は、その損耗が賃借人の故意・過失によるものであることを具体的に立証する必要があることも示されています。
この判例は、その後の同種事案の判断基準となり、長期居住者の権利保護に大きく貢献した画期的判決として評価されています。
賃貸借契約における実践的対策
長期居住を予定する賃貸借契約では、自然損耗と特別損耗の区別を明確にした契約書の作成が重要です。

契約締結時の重要チェックポイント
- 「一切」「すべて」等の包括的表現の回避
- 居住期間による減価償却の明記
- 通常使用による汚損の具体例の列挙
- 故意・過失の立証責任の明確化
借主の皆様にアドバイスしたいのは、まず原状回復特約の文言を慎重にチェックすることです。
「一切の破損・汚れ」「すべての損耗」などの包括的表現がある契約書は、この判例により無効とされる可能性が高いため、契約前に修正を求めるべきです。
また、長期居住を予定する場合は、経年変化による減価償却(時間とともに価値が下がること)の考慮や、日常生活で不可避的に生じる汚損の扱いについて、事前に書面で確認することが重要です。
敷金の返還条件についても、具体的な負担区分(誰が費用を払うかの分け方)表の添付や、第三者機関のガイドライン準拠の明記があるかを確認してください。
契約書に疑問がある場合は、専門家に相談し、借主の正当な権利を守るための条項修正や追加を積極的に求めることをお勧めします。
長期居住では自然損耗の範囲が広がることを理解し、適正な負担分担を実現する契約内容の確保が不可欠です。
まとめ
東京簡易裁判所の本判決は、長期居住における原状回復義務の適正な範囲を明確に示した重要な判例です。
「自然損耗等は賃料として回収されている」との判断により、包括的な原状回復特約があっても、時間の経過に伴う劣化は賃借人負担の対象外であることが確立されました。
この判例により、約10年という長期居住では自然損耗の範囲が大幅に拡大し、日常生活で不可避的に生じる汚損も通常使用の範囲として扱われることが明確になりました。
実務においては、居住期間を考慮した適正な負担区分と、故意・過失の立証責任の明確化により、公正な原状回復制度の確立が可能となります。
長期賃貸借においては、経年変化と通常使用による汚損を適切に評価し、賃借人の権利保護と賃貸人の正当な利益を両立する契約条項の整備が重要です。
- 10年近い居住期間では、自然損耗の範囲が大幅に拡大し、多くの劣化が賃借人負担外となる
- 冷蔵庫排気跡、家具跡等の日常生活で不可避な汚損は通常使用の範囲内である
- 「一切」の文言がある包括的特約でも、自然損耗は賃料に含まれるため除外される
- 原状回復条項は故意・過失による損害のみを対象とし、経年劣化(時間が経って自然に古くなること)は対象外である
- 長期居住では居住期間を考慮した適正な負担区分の設定が不可欠である
参照元:原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)【判例7】
