壁の汚れは自然損耗?特約の有効性を左右する判断基準を検討

賃貸借契約における原状回復(元の状態に戻すこと)義務は、契約書に明記された特約の内容と、実際の損耗の原因を慎重に区別して判断されます。
特に、契約書で具体的に定められた項目と、一般的な原状回復義務の範囲は明確に分けて考える必要があります。
今回ご紹介する仙台簡易裁判所平成7年3月27日判決は、契約書に明記された畳表(畳の表面のゴザ部分)取替え費用の有効性と、壁の汚損における自然損耗の判断について重要な指針を示した判例です。
この判例では、管理受託者が22万円を超える修繕費用を請求したものの、裁判所は明確な契約条項に基づく畳表取替え費用のみを認め、壁の汚損は自然的要因によるものと判断しました。
本記事では、この判例の詳細な分析を通じて、特約の有効性と自然損耗の判断基準について解説いたします。

監修者
1982年にサレジオ学院高校を卒業後、中央大学法学部法律学科に進学し1987年に卒業。法曹界を志し、様々な社会経験を経た後、2016年に行政書士試験に合格。2017年4月に「綜合法務事務所君悦」を開業。法律知識と実務経験を活かし、国際業務を中心に寄り添ったサービスを提供している。
日本行政書士会連合会 神奈川県行政書士会所属
登録番号 第17090472号
概要
本判例は、仙台市内のアパートにおける原状回復費用の負担を巡る争いです。
平成2年3月に締結された賃貸借契約は、月額賃料4万8000円で約4年間継続し、平成6年4月に合意解除されました。

- 物件
仙台市内のアパート - 賃借期間
平成2年3月〜平成6年4月(約4年間) - 月額賃料
4万8000円 - 争点となった金額
修繕費用22万8200円(管理受託者請求額)
契約終了後、賃貸人から保守管理を委託されていた管理受託者が、賃借人の退去後に各種修理を実施し、その費用として22万8200円を支出したとして、賃借人に対し不当利得の返還請求を求めました。
管理受託者の請求根拠は、契約書に記載された「賃借人は畳表の取替えを負担する」旨の条項と、「賃借人の責めに帰すべき事由で物件を汚損したときは直ちに原状回復する」旨の条項でした。
月額賃料4万8000円に対して22万円を超える修繕費用の請求は、賃料の約5か月分に相当する高額なものとなり、特約の有効性と損耗の原因が主要な争点となりました。
契約内容と特約の詳細
本件賃貸借契約には、賃借人の負担に関する2つの重要な条項が設けられていました。

- 明確な特約条項
- 賃借人は畳表の取替えを負担する旨の明記
- 賃借人の責めに帰すべき事由で物件を汚損したときは、直ちに原状に回復しなければならない旨の条項
- 管理受託者が請求した修繕項目
- 和室壁張替え:4万6400円
- 洋室壁張替え:5万6000円
- 玄関台所壁張替え:6万8800円
- 畳表取替え:2万7000円
- 諸経費:3万円
第一の特約は、畳表の取替えについて明確に賃借人負担と定めた具体的な条項でした。
第二の条項は、「賃借人の責めに帰すべき事由で物件を汚損したとき」という限定的な条件付きの原状回復義務を定めていました。
注目すべきは、壁の張替えについては契約書に明確な規定がなかったことです。
管理受託者は、一般的な原状回復義務の範囲内として壁の張替え費用を請求しましたが、その根拠は第二の条項に依存していました。
請求総額22万8200円のうち、約75%が壁の張替え費用であり、明確な契約条項がない項目が請求の大部分を占めている状況でした。
賃貸人・賃借人の主張のポイント
管理受託者側は、契約書の条項を根拠として包括的な修繕費用の支払いを求めました。
争点 | 管理受託者側の主張 | 賃借人側の推定主張 |
---|---|---|
畳表取替え | 契約書に明記された賃借人負担事項 | – |
壁の汚損 | 賃借人の使用により生じた汚損であり、原状回復義務の範囲内 | 通常使用による自然的損耗 |
請求根拠 | 契約条項に基づく不当利得返還請求 | 修繕費用負担義務の不存在 |
損耗の原因 | 賃借人の責めに帰すべき事由による汚損 | 湿気、日照、通風等の自然的要因 |
管理受託者の主張によれば、畳表については契約書に明記された賃借人負担事項であり、壁の汚損についても賃借人の使用に起因するものとして原状回復義務の範囲内であるとしていました。
また、約4年間の使用期間中に生じた内装の劣化は、すべて賃借人の責めに帰すべき事由によるものであり、不当利得返還請求の対象になると主張しました。
一方、賃借人側の具体的な反論内容は判決文では詳述されていませんが、壁の汚損については自然的要因によるものであり、賃借人の責めに帰すべき事由ではないと争ったものと推察されます。
特に、壁の汚損が湿気、日照、通風の有無、年月の経過など、建物の構造的条件や自然的要因によるものであることが後の判決で認定されています。
裁判所の判断と法的根拠
裁判所は、契約条項の明確性と損耗の原因を厳格に区別して判断しました。
判断項目 | 裁判所の認定 | 結論 |
---|---|---|
畳表取替え費用 | 契約条項によれば、畳表取替え費用は賃借人の負担すべきものと認められる | 賃借人負担(2万7000円) |
壁の汚損 | 賃借人の責めに帰すべき事由というよりも、湿気、日照、通風の有無、年月の経過によるもの | 賃貸人負担 |
諸経費 | 畳表取替え以外の費用負担根拠なし | 賃借人の負担義務なし |
まず畳表取替え費用については、「契約条項によれば、畳表取替え費用は賃借人の負担すべきものと認められる」と明確に判断しました。これは契約書に具体的かつ明確に記載された条項の有効性を認めたものです。
一方、壁の汚損については、「賃借人の責めに帰すべき事由というよりも、むしろ、湿気、日照、通風の有無、年月の経過によるものと認められ、壁の張替えの費用は賃貸人の負担に属する」との重要な判断を示しました。
この判断により、管理受託者の請求のうち畳表替えの費用2万7000円のみが認められ、その余の約20万円の請求は失当として棄却されました。
結果として、請求額の約88%が否定される結果となりました。
判例から学ぶポイント
この判例は、特約の有効性と自然損耗の判断基準について重要な指針を示しています。

特約の有効性に関する重要な原則
- 明確性の原則
契約書に具体的かつ明確に記載された項目は有効 - 限定的解釈
「責めに帰すべき事由」は厳格に判断される - 自然的要因の除外
湿気、日照、通風等による損耗は賃借人負担外
最も重要な教訓は、契約書に明確に記載された特約項目と、一般的な原状回復義務の区別です。
畳表取替えのような具体的な条項は有効とされる一方、曖昧な表現による包括的請求は認められませんでした。
また、「賃借人の責めに帰すべき事由」の判断については、湿気、日照、通風の有無、年月の経過などの自然的要因が重視され、単なる経年変化は賃借人の責任とならないことが確認されました。

実務への重要な影響
- 個別具体的な特約は明確に記載することが重要
- 建物の構造的条件による損耗は自然損耗として扱われる
- 請求根拠のない修繕費用は不当利得となる可能性
実務的には、特約事項(通常とは異なる約束事)は項目ごとに具体的かつ明確に定める必要性が確認されました。
さらに、建物の基本的な居住環境に関わる湿気や通風などの問題は、賃借人の責任ではなく自然的要因として扱われることが明確になりました。
賃貸借契約における実践的対策
賃貸借契約書では、特約事項の明確性と負担区分(誰が費用を払うかの分け方)の具体性を重視することが重要です。

契約締結時の注意点
- 特約事項は項目ごとに具体的に記載されているかを確認
- 「責めに帰すべき事由」の具体的な定義を明確化
- 自然的要因による損耗の取扱いを事前に確認
借主の皆様にアドバイスしたいのは、まず特約条項が「畳表取替え」のように具体的に記載されているかをチェックすることです。
「一切の修繕」「すべての原状回復」のような包括的な表現は、今回の判例により無効とされる可能性があります。
有効な特約は、負担項目と金額が明確に特定されている必要があります。
また、湿気やカビなどの問題が生じやすい物件については、建物の構造的問題である可能性が高いため、事前に賃貸人の責任範囲を確認することが重要です。
契約書に曖昧な表現や過度に包括的な条項がある場合は、署名前に具体的な負担範囲の明確化を求めることをお勧めします。
特に、畳・襖・障子などの和室設備については、取替え時期や費用負担の区分を明確に定めておくことで、後日のトラブルを防止できます。
まとめ
仙台簡易裁判所の本判決は、賃貸借契約における特約の有効性と自然損耗の判断基準を明確に示した重要な判例です。
「契約書に具体的かつ明確に記載された項目は有効」である一方、「湿気、日照、通風等による損耗は賃借人の責めに帰すべき事由ではない」との判断は、公正な負担区分の基礎となっています。
この判例により、明確な特約条項の重要性と、自然的要因による損耗の取扱いが確立され、賃貸借契約の透明性向上に貢献しています。
実務においては、特約事項の具体的記載と、建物の基本的な居住条件に関する責任区分の明確化により、紛争の予防が可能となります。
賃貸借契約における公正な負担区分の実現には、明確で具体的な契約条項の設定が不可欠です。
- 契約書に具体的かつ明確に記載された特約項目は有効である
- 湿気、日照、通風等の自然的要因による損耗は賃借人の責めに帰すべき事由ではない
- 包括的で曖昧な表現による原状回復請求は認められにくい
- 特約事項は項目ごとに具体的な負担内容を明記する必要がある
- 年月の経過による自然的劣化は通常損耗(普通に使っていてできる傷み)として扱われる
参照元:原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)【判例5】
