通常損耗も賃借人負担とする特約の有効性が認められた新たな判断基準

賃貸借契約における原状回復(元の状態に戻すこと)特約の有効性は、賃貸人と賃借人双方にとって重要な法的問題です。
多くの判例では通常損耗(普通に使っていてできる傷み)は賃借人負担の対象外とされる傾向にある中で、特約の明確性と私的自治の原則が重視されるケースも存在します。
今回ご紹介する東京地方裁判所平成12年12月18日判決(判例時報1758-66)は、通常損耗を含む原状回復特約が有効と判断された注目すべき判例です。
この事例では、契約書に明記された「畳表(畳の表面のゴザ部分)の取替え、襖の張替え、クロス(壁紙)の張替え、クリーニングの費用を負担する」という特約について、賃借人が公序良俗違反等を理由に無効を主張したものの、裁判所は私的自治の原則を重視して特約の有効性を認めました。
本記事では、この判例の詳細な分析を通じて、原状回復特約の有効性判断における重要な要素と、実務上の注意点について解説いたします。

監修者
1982年にサレジオ学院高校を卒業後、中央大学法学部法律学科に進学し1987年に卒業。法曹界を志し、様々な社会経験を経た後、2016年に行政書士試験に合格。2017年4月に「綜合法務事務所君悦」を開業。法律知識と実務経験を活かし、国際業務を中心に寄り添ったサービスを提供している。
日本行政書士会連合会 神奈川県行政書士会所属
登録番号 第17090472号
概要
本事例は、新築建物の賃貸借契約における明確な原状回復特約の有効性を巡る争いです。
平成6年3月に締結された賃貸借契約は、サブリース業者が賃貸人として月額賃料7万5000円で約7年間継続し、平成11年5月に合意解除されました。

- 物件
新築建物(サブリース物件) - 賃借期間
平成6年3月〜平成11年5月(約7年間) - 月額賃料
7万5000円 - 敷金
22万5000円 - 争点となった金額
原状回復費用23万8875円(賃貸人請求額)
契約終了後、賃貸人は特約条項に基づき、5月分の前家賃4万1130円及び敷金(入居時に預ける保証金)22万5000円の合計額から原状回復費用として23万8875円を相殺し、精算金2万7255円を賃借人に返還しました。
賃借人は、特約の有効性について複数の法的観点から争い、敷金等精算残金23万8875円の返還を求めて提訴しました。
この事例の特徴は、新築物件であることと、特約の文言が比較的明確に記載されていた点にあります。
契約内容と特約の詳細
本件賃貸借契約書には、原状回復義務について極めて明確で具体的な特約が設けられていました。

- 原状回復特約の文言
- 赤の不動文字で記載された「賃借人は、本件建物を明け渡すときは、畳表の取替え、襖の張替え、クロスの張替え、クリーニングの費用を負担する。」
- 契約の基本条件
- 月額賃料:7万5000円
- 敷金:22万5000円(賃料の3か月分)
- 物件:新築建物
- 賃貸人:サブリース業者
- 実際の原状回復費用
- 畳表の取替え費用等:23万8875円
- 敷金を上回る費用請求
特約の最大の特徴は、「赤の不動文字」で記載されており、賃借人の注意を引く形で明記されていた点です。
この特約により、賃借人は畳表の取替え、襖の張替え、クロスの張替え、クリーニングの費用を明け渡し時に負担することが明確に約定されていました。
賃貸人がサブリース業者であったことも、契約条件の設定に影響を与えていたと考えられます。
新築物件であるにも関わらず、約7年間の使用により通常損耗を含む包括的な原状回復費用が発生し、その負担を特約により賃借人に課した契約構造でした。
賃貸人・賃借人の主張のポイント
賃借人側は、特約の無効性について多角的な法的根拠を示して争いました。
争点 | 賃借人側の主張 | 賃貸人側の主張 |
---|---|---|
特約の有効性 | 公序良俗に反し無効である | 契約書に明記された有効な特約である |
費用負担の予見可能性 | 特約条項に基づく費用額が敷金よりも高額になることを一切知らされていない | 特約の文言は明確であり、負担は予見可能 |
住宅金融公庫法違反 | 住宅金融公庫法は自然損耗による原状回復費用の賃借人負担を禁止している | 賃貸人自身が公庫融資を受けておらず、同法の適用なし |
宅建業法違反 | 重要事項説明で特約条項の説明がなかった | 賃貸人には宅建業法の規制は及ばない |
賃借人の主要な主張は、本件特約が公序良俗に反して無効であるというものでした。
また、特約条項に基づく費用額が敷金を上回ることについて、契約時および更新時に一切説明がなかったとして、予見可能性の欠如を主張しました。
さらに、本件建物が住宅金融公庫融資物件であることを理由に、住宅金融公庫法が自然損耗による原状回復費用の賃借人負担を禁止しているとして、特約の無効性を主張しました。
加えて、重要事項説明(契約前の重要な説明)において特約条項の説明がなかったことが宅建業法違反であるとも主張していました。
裁判所の判断と法的根拠
裁判所は、私的自治の原則を重視して、特約の有効性を認める判断を下しました。
判断項目 | 裁判所の認定 | 結論 |
---|---|---|
費用の予見可能性 | 特約条項による負担額を具体的に算出することは契約時には困難である | 予見困難性は特約無効の根拠とならない |
住宅金融公庫法の適用 | 賃貸人自身が公庫融資を受けたものではない | 同法違反を理由とする特約無効の主張に理由なし |
宅建業法の適用 | 賃貸人には宅建業法の規制は及ばない | 宅建業法違反の主張に理由なし |
私的自治の原則 | 自己の意思に基づいて契約を締結した以上、契約上の法律関係に拘束される | 特約条項は拘束力を持つ |
裁判所は、まず消費者保護の観点も重要であるとしながらも、「私法上、私的自治の原則が重要な私法原理であって自己の意思に基づいて契約を締結した以上は、その責任において、契約上の法律関係に拘束されるのが大前提である」と判示しました。
住宅金融公庫法違反については、賃貸人自身が公庫融資を受けたものではないことを理由に、同法違反を根拠とする特約無効の主張には理由がないと判断しました。
契約内容の限定解釈については、「当該契約関係が私的自治の原則を覆滅させてでも修正されなければならないほど不合理・不平等な結果をもたらすものであり、強行法規や公序良俗違反という一般条項の適用が可能な場合」でなければならないとの厳格な基準を示しました。
最終的に、本件特約条項が公序良俗に反するとは認めがたく、特約条項が自然損耗分を含まないと解釈するのは困難であり、特約は拘束力を持つと結論付けました。
判例から学ぶポイント
この判例は、原状回復特約の有効性判断における重要な基準を示しています。

特約有効性の判断要素
- 明確性の原則
特約の文言が具体的で明確に記載されている - 私的自治の尊重
当事者の自由意思による合意は原則として拘束力を持つ - 公序良俗違反の認定基準
「著しく不合理・不平等」な場合のみ無効となる
最も重要な教訓は、特約の文言が明確で具体的である場合、私的自治の原則により有効と判断される可能性が高いという点です。
また、「赤の不動文字」での記載のように、賃借人の注意を引く形で特約が明記されていたことも、有効性認定の重要な要素となりました。

実務への重要な影響
- 契約書の記載方法により特約の有効性が左右される
- 通常損耗も含む特約であっても、明確な合意があれば有効となり得る
- 消費者保護よりも私的自治が優先される場合がある
この判例は、事例1や事例24などの「通常損耗は賃借人負担外」とする判例と対照的な結論を示しており、契約条項の明確性と合意の成立過程が決定的に重要であることを示しています。
実務的には、特約の文言の明確性、記載方法の工夫、賃借人の認識可能性の確保が、特約の有効性を左右する重要な要素となることが確認されました。
賃貸借契約における実践的対策
賃貸借契約書の原状回復条項については、特に慎重な検討が必要です。

契約締結時の重要チェックポイント
- 原状回復特約の具体的内容と負担範囲の明確化
- 費用の概算額や算定方法の事前確認
- 通常損耗と特別損耗の区別に関する説明要求
借主の皆様にアドバイスしたいのは、まず原状回復特約が「明確で具体的」に記載されているかを確認することです。
「畳表の取替え」「襖の張替え」「クロスの張替え」「クリーニング」など、具体的な項目が列挙されている場合は、これらの費用負担が求められる可能性が高いことを理解してください。
また、特約による負担額が敷金を上回る可能性があることも念頭に置き、事前に概算費用を確認することをお勧めします。
契約書に疑問がある場合は、署名前に不動産業者に詳細な説明を求め、必要に応じて書面での回答を求めることが重要です。
特に「通常損耗も含む」旨の記載がある場合は、その妥当性について慎重に検討し、専門家への相談も検討してください。
契約は双方の合意により成立するものですが、借主の権利と義務を正確に理解した上での署名が不可欠です。
まとめ
東京地方裁判所の本判決は、明確で具体的な原状回復特約の有効性を認めた重要な判例です。
「私的自治の原則」を重視し、当事者の自由意思による合意の拘束力を認めることで、契約自由の原則を支持する判断となりました。
この判例により、通常損耗を含む原状回復特約であっても、明確な合意があれば有効となり得ることが確立されました。
一方で、この判例は他の多くの判例とは異なる結論を示しており、特約の有効性は個別の事案によって判断が分かれることも明らかになりました。
賃貸借契約においては、契約条項の明確性と合意の成立過程が法的効力を左右する決定的要素となるため、契約締結時の慎重な検討と専門的助言の活用が重要です。
- 明確で具体的な原状回復特約は、私的自治の原則により有効と判断される可能性が高い
- 契約書の記載方法(赤字強調等)は特約の有効性認定に重要な影響を与える
- 通常損耗を含む特約であっても、明確な合意があれば拘束力を持つ場合がある
- 消費者保護よりも私的自治の原則が優先されるケースが存在する
- 特約の有効性は個別事案により判断が分かれるため、契約締結時の慎重な検討が必要
参照元:原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)【判例15】
