【判例35】「経年以外の部分」の立証責任と原状回復費用の適正範囲の決定的判断

賃貸借契約の終了時における原状回復費用の負担範囲は、賃貸人と賃借人の間で頻繁に争われる問題です。
特に「経年劣化」と「賃借人の責任による汚損・破損」の境界線をどこに引くかは、実務上極めて重要な判断基準となります。
今回ご紹介する東京地方裁判所平成21年7月22日判決は、契約書に「経年以外の部分で賃借人の責めに帰する汚損・破損」の修復を賃借人負担とする条項がある事案で、その立証責任と適用範囲を明確にした重要な判例です。
この事例では、賃貸人が10項目・総額46万円を超える原状回復費用を請求したものの、裁判所は厳格な立証基準を適用し、賃借人負担を僅か3項目・約7万7千円に限定しました。
本記事では、この判例の詳細な分析を通じて、原状回復費用の立証責任と適正な負担範囲について解説いたします。

監修者
1982年にサレジオ学院高校を卒業後、中央大学法学部法律学科に進学し1987年に卒業。法曹界を志し、様々な社会経験を経た後、2016年に行政書士試験に合格。2017年4月に「綜合法務事務所君悦」を開業。法律知識と実務経験を活かし、国際業務を中心に寄り添ったサービスを提供している。
日本行政書士会連合会 神奈川県行政書士会所属
登録番号 第17090472号
原状回復ガイドライン【判例35】の概要
本事例は、賃貸借契約終了時の原状回復費用を巡る争いで、賃借人が敷金51万3000円の返還を求めた事案です。
賃貸人は契約書の原状回復条項を根拠として、10項目にわたる修繕費用合計46万110円を敷金から控除すべきと主張しました。

- 物件
詳細不明(集合住宅と推定) - 敷金
51万3000円 - 賃貸人請求額
原状回復費用46万110円 - 最終的な賃借人負担
7万7490円(3項目のみ)
争点となったのは、フローリング補修、設備取替え、内装工事など多岐にわたる修繕項目について、これらが「経年以外の部分で賃借人の責めに帰する汚損・破損」に該当するかどうかでした。
一審では賃借人の主張が大幅に認められ、賃貸人が控訴したものの、控訴審においても原判決が維持されました。
この事例は、原状回復費用の立証責任が賃貸人側にあることを明確に示し、単なる主張だけでは賃借人負担を認めない厳格な判断基準を確立した重要な先例となっています。
原状回復ガイドライン【判例35】の契約内容と特約の詳細
本件賃貸借契約には、原状回復義務に関する明確な条項が設けられていました。

- 原状回復条項の内容
- 「経年以外の部分で乙(入居者)の責めに帰する汚損・破損に関し乙の費用をもって遅滞なく原状回復の措置をとり、本物件を明け渡すものとする」
- 賃貸人が請求した原状回復項目
- フローリング補修張替え(6枚分):15万円
- 框戸の取替え:7万5000円
- 洗面化粧台ボール取替え:7万円
- ハウスクリーニング:5万7800円
- ビニールクロス張替え:4万円
- その他5項目:約11万円
契約書の特約は「経年以外の部分で賃借人の責めに帰する汚損・破損」という表現を用いており、これは経年劣化と賃借人責任を明確に区別する条項として設計されていました。
賃貸人の請求項目は多岐にわたり、高額な設備交換から日常的な清掃費用まで包括的な内容となっていました。
特に注目すべきは、フローリング6枚分の張替えや框戸取替えなど、通常の使用では発生しにくい大規模な修繕が含まれていた点です。
これらの修繕費用について、賃貸人は賃借人の故意・過失による損耗であると主張し、総額46万110円という高額な原状回復費用を求めました。
賃貸人・賃借人の主張のポイント
本件では、原状回復費用の性質と立証責任について双方が対立しました。
争点 | 賃貸人側の主張 | 賃借人側の主張 |
---|---|---|
契約条項の解釈 | 「経年以外の部分」の条項により、経年劣化を除くすべての損耗は賃借人負担 | 賃借人の責任による損耗の立証が必要 |
フローリング損傷 | 賃借人の使用方法に問題があり、通常損耗を超える | 経年劣化による自然な損耗 |
設備の損傷 | 賃借人の管理不備により生じた損傷 | 通常使用の範囲内 |
立証責任 | 契約条項により賃借人負担は明確 | 賃借人の責任による損耗の具体的立証が不十分 |
賃貸人側は、契約書に「経年以外の部分で賃借人の責めに帰する汚損・破損」と明記されていることを根拠に、請求した10項目すべてが賃借人負担に該当すると主張しました。
特に、フローリングの損傷や設備の故障について、これらは経年劣化ではなく賃借人の使用方法や管理に起因するものであると強調しました。
一方、賃借人側は、契約条項があっても具体的な損耗の原因と賃借人の責任を立証する必要があり、単に「経年以外」というだけでは不十分であると反論しました。
また、請求された修繕項目の多くは通常使用の範囲内で発生する自然な損耗であり、賃借人の故意・過失を示す証拠が不足していると主張しました。

裁判所の判断と法的根拠
裁判所は、立証責任と損耗の性質について厳格な判断基準を適用しました。
判断項目 | 裁判所の認定 | 結論 |
---|---|---|
フローリング補修 | 6枚分のうち賃借人責任が認められるのは2枚分のみ | 賃借人負担:5万円 |
ビニールクロス張替え | 全面張替えの必要性は認められず、半額相当の範囲のみ | 賃借人負担:2万円 |
ダン襖片面張替え | 賃借人の責任による損傷と認定 | 賃借人負担:3800円 |
その他7項目 | 「賃借人の責めに帰する汚損・破損」の立証不十分 | 賃借人負担なし |
一審裁判所は、まず「本件全証拠によっても、『経年以外の部分で賃借人の責めに帰する汚損・破損』を補修するための費用であると認めるには足りない」との判断基準を示しました。
この基準に基づき、10項目中7項目について賃借人の責任を否定し、具体的な損傷の原因と賃借人の故意・過失の立証が不十分であると判断しました。
控訴審においても、賃貸人が追加の立証を試みたものの、原審の判断が維持され、「認定した範囲を超えて賃借人が負担すべきことを認めるに足りない」との結論が下されました。
最終的に、敷金51万3000円から7万7490円を控除した43万5510円の返還が命じられ、原状回復費用の大部分が賃貸人負担とされました。

原状回復ガイドライン【判例35】から学ぶポイント
この判例は、原状回復費用の立証責任と適正な負担範囲について重要な指針を示しました。

立証責任に関する重要な原則
- 厳格な立証基準
契約条項があっても、具体的な損耗原因と賃借人責任の立証が必要 - 部分的な認定
同一項目でも損傷の程度と原因を個別に判断 - 賃貸人の立証責任
「経年以外」を主張する側が損耗の性質を証明すべき
最も重要な教訓は、契約書に「経年以外の部分で賃借人の責めに帰する汚損・破損」という条項があっても、それだけで賃借人負担が自動的に認められるわけではないという点です。
裁判所は、各項目について具体的な損傷状況、発生原因、賃借人の行為との因果関係を厳格に審査し、立証が不十分な場合は賃借人負担を否定しました。

実務への重要な影響
- 包括的な請求よりも個別的・具体的な立証が重要
- 契約条項の文言よりも実際の損耗状況が重視される
- 賃貸人側の詳細な記録・証拠保全の必要性
また、フローリング6枚中2枚のみ、クロス張替えも半額相当のみといった部分的な認定も特徴的で、損傷の範囲と原因を詳細に検討する必要性を示しています。
この判例により、原状回復費用の請求には単なる契約条項の援用ではなく、具体的で説得力のある立証が不可欠であることが確立されました。
賃貸借契約における実践的対策
事例35の教訓を踏まえ、賃貸借契約書では立証責任と負担範囲を明確にすることが重要です。

契約締結時の注意点
- 「経年以外」の具体的な定義と判断基準を明確化
- 原状回復費用の立証責任の所在を明記
- 個別項目ごとの負担区分表の添付
借主の皆様には、まず「経年以外の部分」という表現の具体的な意味を確認することをお勧めします。
この表現は一見明確に見えますが、実際の適用場面では損耗の原因と賃借人の責任を個別に立証する必要があることを理解しておくことが重要です。
また、入居時の物件状況をデジタルカメラで詳細に記録し、退去時との比較ができるよう準備しておくことも有効な対策です。
契約書に負担区分表が添付されていない場合は、どのような損耗が「経年以外」に該当するのか、具体例を含めて事前に確認し、書面で明確化を求めることをお勧めします。
退去時に高額な原状回復費用を請求された場合は、まず損耗の原因と賃借人責任の根拠について詳細な説明を求め、必要に応じて専門家への相談を検討することが大切です。

まとめ
東京地方裁判所の本判決は、原状回復費用の立証責任について厳格な基準を示した重要な判例です。
契約書に「経年以外の部分で賃借人の責めに帰する汚損・破損」という条項があっても、具体的な損耗の原因と賃借人の責任を立証しなければ賃借人負担は認められないとの判断が確立されました。
この判例により、包括的・抽象的な原状回復請求ではなく、個別的・具体的な立証に基づく適正な負担分担の重要性が明確になりました。
実務においては、契約条項の明確化と詳細な証拠保全により、公正で透明性の高い原状回復の実現が可能となります。
賃貸借契約における適正な原状回復の実現は、健全な賃貸住宅市場の発展と紛争予防に不可欠な要素です。
- 契約条項があっても、損耗の原因と賃借人責任の具体的立証が必要
- 「経年以外」の主張には、詳細な証拠と説得力のある立証が不可欠
- 同一項目でも損傷の範囲と原因を個別に検討して部分的認定がなされる
- 包括的な請求よりも具体的・個別的な立証が重視される
- 入退去時の詳細な記録と証拠保全が紛争予防の鍵となる