敷引金が通常損耗の修繕費に充てられるべきとされる法的根拠とは?

賃貸住宅における敷引制度は、関西地方を中心に広く普及している慣行です。
この制度では、契約終了時に敷金(入居時に預ける保証金)から一定額を差し引いて返還する約定が設けられますが、その法的性質や適用範囲については長年議論が続いてきました。
今回ご紹介する大阪簡易裁判所平成6年10月12日判決は、敷引金と通常損耗(普通に使っていてできる傷み)の修復費用との関係を明確にした重要な判例です。
この事例では、賃貸人が敷引金以上の原状回復(元の状態に戻すこと)費用を請求したものの、裁判所は「通常の汚損に関する費用は敷引金をもって充てるべき」との画期的な判断を示しました。
本記事では、この判例の詳細な分析を通じて、敷引制度の適正な運用と、賃貸借契約における費用負担の公正な分担について解説いたします。

監修者
1982年にサレジオ学院高校を卒業後、中央大学法学部法律学科に進学し1987年に卒業。法曹界を志し、様々な社会経験を経た後、2016年に行政書士試験に合格。2017年4月に「綜合法務事務所君悦」を開業。法律知識と実務経験を活かし、国際業務を中心に寄り添ったサービスを提供している。
日本行政書士会連合会 神奈川県行政書士会所属
登録番号 第17090472号
概要
本事例は、賃貸借契約における敷引金の法的性質と、通常損耗に対する費用負担を巡る争いです。
平成2年8月に締結された賃貸借契約は約3年間継続し、平成5年7月に終了しました。

- 物件
賃貸建物(詳細不明) - 賃借期間
平成2年8月〜平成5年7月(約3年間) - 保証金
170万円 - 敷引率
2年以上:25%(42.5万円)
契約終了後、賃貸人は原状回復費用として、クロス(壁紙)・障子・襖の張替え、床畳工事、クリーニング費用の合計約45万円を主張し、保証金170万円から敷引分25%(42.5万円)を超える費用を差し引いて、81万円余のみを返還しました。
これに対し賃借人は、通常損耗の修復費用は敷引金で賄われるべきであるとして、敷引約定に基づく127万5000円の返還を求めて提訴しました。
本件の争点は、敷引金の法的性質と、通常損耗に対する費用負担の関係にありました。
契約内容と特約の詳細
本件賃貸借契約には、関西地方で一般的な敷引制度が採用されていました。

- 保証金の設定
- 契約時に保証金170万円を預託
- 契約期間2年未満の場合:30%差引き
- 契約期間2年以上の場合:25%差引き
- 賃貸人主張の原状回復項目
- クロス、障子及び襖の張替え
- 床畳工事
- クリーニング費用
- 上記原状回復費用の合計:約45万円
保証金約定によれば、賃借期間が2年以上の場合、170万円の25%にあたる42.5万円が敷引金として差し引かれ、残りの127.5万円が返還されることになっていました。
しかし賃貸人は、この敷引金では足りないとして、さらに45万円の原状回復費用を主張し、実際の返還額を大幅に減額しました。
賃貸人の主張する原状回復項目は、いずれも居住に伴い通常発生する損耗に該当するものでした。
このような状況で、敷引金の趣旨と原状回復費用の関係が重要な争点となりました。
賃貸人・賃借人の主張のポイント
双方の主張は、敷引金の法的性質に対する根本的な認識の違いに基づいていました。
争点 | 賃貸人側の主張 | 賃借人側の主張 |
---|---|---|
敷引金の性質 | 敷引金は礼金的性格であり、原状回復費用とは別の負担 | 敷引金は通常損耗の修復費用に充当されるべき |
原状回復費用の負担 | 実際に要した45万円の費用は賃借人が別途負担すべき | 通常損耗の修復費用は敷引金で賄われる |
損耗の程度 | 甚だしい汚損により約45万円の費用が必要 | 通常の使用により自然に生じた程度の汚損 |
賃貸人は、賃借人の使用によって建物が「甚だしく汚損」されたと主張し、クロス・障子・襖の張替えや床畳工事などで約45万円を要したとしていました。
また、敷引金42.5万円では不足するため、保証金からさらに費用を差し引くのが当然であると主張しました。
一方、賃借人側は通常の使用により自然に生じた損耗であり、このような費用は敷引約定に含まれているはずだと反論しました。
特に、敷引制度の本来の趣旨は、通常損耗の修復費用を予め定額で負担する制度であるとの主張を展開しました。
裁判所の判断と法的根拠
裁判所は、敷引制度の本質的性格について明確な判断を示しました。
判断項目 | 裁判所の認定 | 結論 |
---|---|---|
損耗の性質 | 天井クロスの照明器具取付け跡、畳の汚損は通常の使用により自然に生ずる程度の汚れ | 賃借人の特別な責任なし |
敷引約定の解釈 | 通常の汚損に関する費用は敷引金をもって充てるとの約定を含んでいる | 敷引金で通常損耗の修復費用は賄われる |
修復費用の程度 | 通常損耗の修復に要する費用は数万円程度を超えるものではない | 敷引金で十分充当可能 |
まず損耗の性質について、「天井クロスの照明器具取付け跡、畳の汚損については、賃借人の通常の使用により自然に生ずる程度の汚れであった」と認定しました。
そして敷引約定の解釈について、「賃借人の通常の使用により賃借物に自然に生じる程度の汚損、即ち通常の汚損に関する費用は一次的には敷引金をもって充てるとの約定を含んでいると解するのが相当」との重要な判断を示しました。
さらに、通常損耗の修復費用は「数万円程度を超えるものではなく、敷引金をもって充てるべき」として、賃借人の請求を全面的に認めました。
この判決は、敷引制度の合理的解釈と、通常損耗に対する費用負担の公正な分担を示した先駆的判例として評価されています。
判例から学ぶポイント
この判例は、敷引制度の適正な運用について重要な指針を示しました。

敷引制度に関する重要な原則
- 通常損耗の費用充当
敷引金は通常損耗の修復費用に充当されることが前提 - 二重負担の禁止
敷引金を徴収した上で別途通常損耗費用を請求することは不当 - 合理的解釈の原則
敷引約定は当事者の合理的意思に基づいて解釈すべき
最も重要な教訓は、敷引制度の本質的性格に関する認識です。敷引金は単なる礼金(お礼として支払うお金)ではなく、通常損耗の修復費用を予め定額で負担する合理的制度として位置づけられました。
この判例により、関西地方の敷引制度が法的にも合理性を有する制度として認められる一方で、その適正な運用基準も明確になりました。

実務への重要な影響
- 敷引制度の法的有効性が確認された
- 通常損耗と特別損耗の明確な区別が必要
- 敷引金の額は通常損耗の修復費用に見合った適正額であるべき
実務的には、敷引制度を採用する契約においても、通常損耗と特別損耗の区別は重要であり、敷引金で賄われる範囲を明確にする必要があります。
また、敷引金の額が通常損耗の修復費用として適正かどうかも、今後の契約設計において重要な考慮要素となります。
賃貸借契約における実践的対策
敷引制度がある賃貸借契約では、その内容と適用範囲を十分に理解することが重要です。

契約締結時の注意点
- 敷引金の額と敷引率の確認
- 敷引金で賄われる修復範囲の明確化
- 通常損耗と特別損耗の定義を書面で確認
借主の皆様にアドバイスしたいのは、敷引制度がある契約では、まず敷引金の性格を確認することです。
敷引金が通常損耗の修復費用に充当されることが明記されているか、それとも礼金的性格として扱われているかを明確にしましょう。
また、敷引金を支払った場合、退去時に通常損耗について別途費用請求されることはないはずです。これが二重に請求される場合は、本判例を根拠に異議を申し立てることができます。
契約書では、「敷引金は通常損耗の修復費用に充当する」旨の記載があることを確認し、曖昧な表現の場合は契約前に質問することをお勧めします。
退去時には、敷引金で賄われる範囲と、賃借人が別途負担すべき特別損耗の範囲を明確に区別して精算を行うよう求めることが大切です。
まとめ
大阪簡易裁判所の本判決は、敷引制度の合理的解釈を示した重要な判例です。
「通常の汚損に関する費用は敷引金をもって充てる」との判断により、敷引制度の法的基盤が確立され、賃借人の権利保護に大きく貢献しました。
この判例により、敷引金と通常損耗の修復費用との関係が明確になり、関西地方の慣行である敷引制度の適正な運用が可能となりました。
実務においては、敷引制度を採用する契約でも、通常損耗と特別損耗の明確な区別が必要であり、二重負担を避ける仕組みが重要です。
敷引制度は、適正に運用されれば賃貸人・賃借人双方にとって合理的な制度であり、この判例が示した原則に基づく公正な契約条項の設定が、健全な賃貸住宅市場の発展に寄与します。
- 敷引金は通常損耗の修復費用に充当されることが前提であり、別途請求は不当
- 敷引制度は法的に有効な制度だが、適正な運用が必要
- 通常の使用により自然に生じた損耗は敷引金の範囲内として扱われる
- 契約書では敷引金の性格と適用範囲を明確に記載すべき
- 敷引金の額は通常損耗の修復費用として適正な水準であることが重要
参照元:原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)【判例4】
