
殺人事件と通常損耗の原状回復費用が全額棄却された東京高裁の判例を解説
退去時に管理会社や貸主から「通常損耗の原状回復費用を全額負担してほしい」と言われるだけでなく、入居中に起きた事件の損害賠償まで請求されたら、どう対応すればよいでしょうか。
本記事で紹介するのは、東京高等裁判所が平成31年3月14日に下した判決(RETIO No.116)です。
この裁判では、従業員寮として使用されていた60室の賃貸物件について、通常損耗を含む原状回復費用と殺人事件による損害賠償の支払義務が争点となりました。
裁判所は賃貸人の請求を全部棄却し、賃借人に対する保証金の一部返還を認めました。

監修者
1982年にサレジオ学院高校を卒業後、中央大学法学部法律学科に進学し1987年に卒業。法曹界を志し、様々な社会経験を経た後、2016年に行政書士試験に合格。2017年4月に「綜合法務事務所君悦」を開業。法律知識と実務経験を活かし、国際業務を中心に寄り添ったサービスを提供している。
日本行政書士会連合会 神奈川県行政書士会所属
登録番号 第17090472号
東京高裁が示した通常損耗と殺人事件の損害賠償に関する判断

- 従業員寮60室の賃貸借契約の内容と本訴・反訴が提起された経緯
- 通常損耗の原状回復費用と殺人事件の損害賠償が棄却された理由
- クロスの耐用年数6年と残存価値の計算方法を把握しておくことが重要になる

退去費用として500万円以上を請求されたうえ、殺人事件の損害賠償まで求められたらどうしますか。
この東京高裁の判決は、通常損耗の原状回復費用と殺人事件の損害賠償の両方を棄却した貴重な先例です。
従業員寮60室の賃貸借契約の内容と本訴・反訴が提起された経緯

まず、この裁判の背景となった賃貸借契約の内容を整理します。
人材派遣業を営むY(賃借人)は、従業員寮として使用するため、X(賃貸人)所有の建物の2階から6階までの60室を月額238万円(1室あたり43,000円)で賃借していました。
保証金は774万円で、賃貸借期間は平成9年1月1日から15年間とされ、7年経過後は2年ごとに更新される契約でした。
賃貸借期間が15年を超えた後にYが退去を申し出て、約16年6か月で建物を明け渡しましたが、Xは通常損耗を含む原状回復費用と殺人事件による損害賠償金の支払いを求めて本訴を提起し、Yは保証金の返還を求めて反訴しました。
ゲン16年以上入居した物件では設備の経年劣化が進むため、通常損耗の範囲が広く認められる傾向にあります。
民法第601条:賃貸借は、当事者の一方がある物の使用及び収益を相手方にさせることを約し、相手方がこれに対してその賃料を支払うこと及び引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還することを約することによって、その効力を生ずる。
通常損耗の原状回復費用と殺人事件の損害賠償が棄却された理由


次に、裁判所が賃貸人Xの請求を全部棄却した理由を確認します。
通常損耗の原状回復費用については、賃借人が通常損耗を負担する旨の明確な合意は成立していないと判断されました。
裁判所は最高裁平成17年12月16日判決の基準を引用し、通常損耗を賃借人負担とするには、契約書に具体的な範囲が明記されているか口頭での説明と合意が必要としました。
殺人事件による損害賠償(370万円)については、事件から10年以上が経過しており、時間の経過とともに心理的影響は減少するとして、賃借人に賠償義務はないと結論づけました。



通常損耗の費用負担は明確な合意がなければ貸主が負担するのが法律上の原則です。
民法第621条:賃借人は、賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷(通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除く。)がある場合において、賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に回復する義務を負う。
クロスの耐用年数6年と残存価値の計算方法を把握しておくことが重要になる



クロス・カーペット・クッションフロア等の耐用年数は6年です。要は入居期間が6年以上であれば、原状回復費用は発生しない(0円)ということになります。
さらに、この判決の背景として、設備の耐用年数を理解しておくことが重要です。
国土交通省のガイドラインではクロス(壁紙)の耐用年数は6年と定められており、定額法による計算で入居年数が長いほど残存価値が下がります。
この事例のように16年以上入居した場合、クロスの残存価値は1円となるため借主負担はほぼゼロになります。



入居年数ごとに借主が負担すべき残存価値を計算ツールで確認できます。
民法第1条第2項:権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
この判決から学ぶ原状回復特約と心理的瑕疵への対処法


- 通常損耗を借主負担にするには契約書への明記または口頭での合意が必要になる
- 賃貸物件で発生した殺人事件の損害賠償は時間経過で認められにくくなる
- 高額な原状回復費用を請求されたときは段階的に交渉を進められる


判決の要点を理解したうえで、同様のトラブルに直面したときにどう対処すればよいか気になる方も多いでしょう。
ここでは、通常損耗の原状回復特約が有効になる条件と心理的瑕疵の法的な取扱い、そして具体的な交渉手順を解説します。
通常損耗を借主負担にするには契約書への明記または口頭での合意が必要になる


まず、この判決が通常損耗の原状回復特約を無効とした法的根拠を整理します。
裁判所は最高裁平成17年12月16日判決の基準に基づき、通常損耗を賃借人負担とするためには、借主が負担する具体的な範囲が契約書に明記されているか、口頭での説明と借主の明確な合意が必要と判示しました。
本件では契約書に原状回復の約定は存在したものの、通常損耗を借主負担とする旨が具体的に定められておらず、賃借人が通常損耗の費用を負担する明確な合意は成立していないと判断されました。
敷金や保証金から通常損耗の原状回復費用を差し引かれた場合は、契約書の記載内容を確認することが重要です。





契約書に通常損耗の負担範囲が具体的に明記されていなければ、費用の返還を求められる可能性があります。
民法第622条の2第1項:賃貸人は、敷金(いかなる名目によるかを問わず、賃料債務その他の賃貸借に基づいて生ずる賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務を担保する目的で、賃借人が賃貸人に交付する金銭をいう。)を受け取っている場合において、賃貸借が終了し、かつ、賃貸物の返還を受けたときは、賃借人に対し、その受け取った敷金の額から賃貸借に基づいて生じた賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務の額を控除した残額を返還しなければならない。
賃貸物件で発生した殺人事件の損害賠償は時間経過で認められにくくなる


加えて、この判決は殺人事件による心理的瑕疵(かし)の損害賠償についても重要な判断を示しました。
賃貸人Xは殺人事件により物件の価値が下がったとして370万円の損害賠償を請求しましたが、裁判所は事件から10年以上が経過していることを重視しました。
殺人事件の心理的影響は時間の経過とともに減少すると判断され、賃貸借契約の更新もあったことから、賃借人に賠償義務はないとされました。
心理的瑕疵の損害賠償は事件の経過年数や物件の改修状況など個別の事情によって判断されるため、一律に責任を負うとは限りません。



殺人事件があった物件でも、時間の経過によって損害賠償義務が認められないケースがあることを覚えておきましょう。
民法第415条第1項:債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき又は債務の履行が不能であるときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし、その債務の不履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない。
高額な原状回復費用を請求されたときは段階的に交渉を進められる


最後に、この判決を踏まえた退去費用トラブルへの具体的な対処法を解説します。
通常損耗の原状回復費用を請求された場合は、まず契約書に通常損耗を借主負担とする明確な記載があるかどうかを確認してください。
記載がなければ「通常損耗は貸主負担が法律上の原則である」旨を書面で伝え、交渉を開始しましょう。
交渉で解決しない場合は、少額訴訟や消費者センターへの相談で対処できます。





書面での交渉は証拠として残るため、口頭だけのやり取りよりも有利に進められます。
民法第703条:法律上の原因なく他人の財産又は労務によって利益を受け、そのために他人に損失を及ぼした者は、その利益の存する限度において、これを返還する義務を負う。
よくある質問
まとめ
この判決は、通常損耗の原状回復費用と殺人事件の損害賠償の両方が棄却された重要な先例です。
退去時に高額な原状回復費用や心理的瑕疵を理由とした損害賠償を請求された場合は、契約書の記載内容や事件からの経過年数を確認することが重要です。
この記事のポイントを振り返ります。
- 東京高裁は通常損耗の原状回復費用について賃借人の負担合意は成立していないと判断した
- 殺人事件から10年以上が経過しており損害賠償義務はないとされた
- 保証金774万円から約定の負担分を控除した403万円の返還が認められた
- 通常損耗を借主負担とするには契約書への明記または口頭での合意が必要
- 不当な請求には書面での交渉や専門家への相談で対処できる


- 敷金ドットコムは、情報提供を目的としたサイトです。行政書士が記事の監修および執筆を行っておりますが、根本的な問題やトラブルの解決を目的としたものではありません。トラブルの解決については、弁護士または認定司法書士にご相談ください。











とは?賃貸退去時の借主の責任範囲を解説_1772722420-300x169.jpg)